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東京地方裁判所 昭和51年(ワ)666号 判決

原告

金明煥

右訴訟代理人

桜井英司

被告

加納承三郎

右訴訟代理人

江澤義雄

右訴訟復代理人

丹羽鉱治

被告

右代表者法務大臣

福田一

右指定代理人

成田信子

外一名

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一、請求の趣旨

1  被告らは原告に対し各自金四九九万円及び内金四七九万円に対する昭和五一年二月一七日から支払いずみまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言。

二、請求の趣旨に対する被告らの答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  (被告国)

同被告敗訴のときは、担保を条件とする仮執行免脱の宣言。

第二  当事者の主張

一、請求原因

1  原告は昭和五〇年四月九日訴外斎藤亀好との間に、同人を借主として金六〇〇万円を貸与する旨約すとともに、同月一一日訴外岡森博子と称する女性(実際には訴外小野君江)との間に、右債務の履行を担保するため岡森博子所有にかかる東京都江東区東砂三丁目四四四番一宅地142.14平方メートル(以下「本件土地」という。)につき抵当権及びいわゆる仮登記担保権を設定する旨の契約を締結した。

次いで、原告は、前同日斎藤亀好及び小野君江と同道して、司法書士である被告加納承三郎の事務所に赴き、同被告(又は同被告の被用者である訴外伊藤長造)に対し本件土地に対する抵当権設定登記及び停止条件付所有権移転仮登記申請事務を嘱託したところ、小野君江から岡森博子名義の印鑑証明書、委任状「以下前者を「本件印鑑証明書」、後者を「本件委任状」という。)各一通の交付を受けた同被告(又は伊藤長造)が、これらの書類を点検したうえ、原告に対し、登記申請書類に不備はない旨明言したので、原告は前同日斎藤亀好に対し約定の貸付金のうち金三〇〇万円を交付した。

その後、前同月一四日原告及び岡森博子の代理人たる被告加納承三郎(又は伊藤長造)により、東京法務局墨田出張所に対し本件土地につき前記嘱託に基づく登記の申請がなされ、同出張所登記官がこれを受理して右申請にかかる登記が経由された(受付第一二四〇〇号抵当権設定登記、第一二四〇一号停止条件付所有権移転仮登記。以下これらを「本件登記」という。)。そこで、原告は、前同日被告加納承三郎(又は伊藤長造)から本件登記が経由された事実の確認を得たうえで、斎藤亀好に対し前記貸付金の残金三〇〇万円を交付した。

2  しかるに、その後昭和五〇年五月一二日岡森博子から原告を相手どつて当庁に対し、本件土地につきなされた本件登記の抹消登記手続を求める訴訟(当庁同年(ワ)第三九一五号)が提起されるに至つたところ、右訴訟において同訴外人は、斎藤亀好に対し同土地につき担保権を設定することを承諾した事実はなく、単に全く別異の目的で同人に印鑑証明書一通(同年四月三〇日府中市長発行。これが本件登記の申請に用いられた本件印鑑証明書である。)を交付したことがあるにすぎないと、前記のように原告と被告加納承三郎の事務所に同道した女性は岡森博子を詐称した小野君江で、同人が同被告(又は伊藤長造)に交付した本件委任状に押捺されている岡森博子の印影は斎藤亀好が偽造した印鑑によるものであつて、岡森博子の登録済印鑑の印影(従つて、本件印鑑証明書に押捺されている印影)と相違することを主張し、かつ、右主張が真実であり、従つて、原告と同訴外人間の同土地に対する前記抵当権等設定契約は無効であることが判明した。

このような右訴訟の経過に鑑み、原告は勝訴判決を得る見込みは乏しく、岡森博子から一定の和解金の支払いを受けるのと引換えに、同人に対し本件登記の抹消に応ずるのも止むを得ないと考え、結局昭和五〇年一二月二六日同人との間に右のような趣旨の訴訟上の和解契約を締結した。

一方、斎藤亀好は昭和五〇年一〇月二八日東京地方検察庁検察官から有印私文書偽造、同行使、詐欺の公訴事実をもつて当庁に起訴され、現在勾留中であるほか、みるべき資産も持たず、原告が同人に貸与した金員を回収することは不能な状態にある。

3  ところで、原告が斎藤亀好に対して前記金員を貸与するに至つたのは、司法書士である被告加納納承三郎(又は同被告の被用者である伊藤長造)が本件登記の申請書類に不備はない旨確言し、また、被告国の被用者である登記官も右書類を受理したので、有効な同登記がなされるものと信じたからにほかならない。

4(一)  司法書士は、他人からの嘱託を受けて登記に関する手続を代つて行うこと等を業とする者であるから、嘱託にかかる登記申請書類等に不備がないか否かを精査すべきことはその当然の義務であり、わけても、印鑑証明書の印影と委任状に押捺された印影の照合は、委任者と印鑑証明書の名義人の同一性を確認するため、或いは、右名義人が真実登記委任の意思を有していることを確認するための重要な手段であるからとくに細心の注意を払うべきである。

しかるに、被告加納承三郎は原告から本件登記申請を受任した際、右の義務を怠った結果、本件印鑑証明書の印影と本件委任状に押捺された印影とを肉眼で比較対照しただけでも、

(1) 輪郭の内側の線から内部の字画線までの距離に差異があること(とくに、後者は「岡」の字の右上部、「森」の字の右下部、「博」の字の左上部が輪郭の内側の線に密着している。)。

(2) 前者は「(子)」の字の下部の字画線が「」型でゆるやかに左傾しているのに対し、後者は「」のような鍵型になっていること。

(3) 前者は輪郭内の四文字が比較的接近しているのに、後者は右四文字間の距離がやや離れていること。

等が発見できたにも拘らず、右両印影の差異を看過し、そのまま本件登記の申請手続に及んだ。

(二)  仮に原告から本件登印の申請事務の嘱託を受けたのが被告加納承三郎ではなく、同被告の被用者で、従来から継続反覆して事実上司法書士の業務を処理してきた伊藤長造であつたとしても、同訴外人は右(一)に述べた司法書士と同様の義務を負うと解すべきところ、これを怠つた結果、容易に発見し得る前記印影の相違を看過し、そのまま本件登記申請手続に及んだ。

(三)  登記官はその形式的審査権限に基づいて登記申請書類を点検し、とくに印鑑証明書の印影と委任状に押捺された印影が一致するか否かを慎重に照合すべき注意義務を負うところ、被告の被用者で、登記事務の公権力の行使にあたる東京法務局墨田出張所職員は、右義務を怠り、被告加納承三郎又は伊藤長造による本件登記申請の書類中の前記両印影の相違を看過し、登記原簿に同登記を記載した。

(四)  よって、被告加納承三郎は右(一)の場合は民法七〇九条、(二)の場合は同法同条、七一五条に、被告国は国家賠償法一条に基づいて、原告が有効な本件登記がなされるものと信頼して財産上の取引をしたことにより被つた損害を賠償すべき責を負う。

5  右原告の損害の内容は以下のとおりである。

(一) 原告が斎藤亀好に金六〇〇万円を貸与し、その回収が不可能になつたことは前記のとおりであるが、原告は岡森博子との前記和解契約に基づき同人から和解金として金一二〇万円の、他方、小野君江から弁償金として金二一万円の各支払いを受けたから、これらを控除すると損害残金は金四五九万円である。

(二) 原告は被告から訴訟により右損害金残金を取立てるため、弁護士桜井英司に本件訴訟の遂行を委任し、昭和五一年一月末ころ着手金として金二〇万円を支払うとともに、成功報酬として同額の金員を支払うことを約した。

6  よつて、原告は被告らに対し、損害賠償として各自金四九九万円及び内金四七九万円(弁護士に対する成功報酬金二〇万円を除く部分)に対する本件不法行為後の日である昭和五一年二月一七日から支払いずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二、請求原因に対する認否〈略〉

三、抗弁

(被告加納承三郎)

仮に被告加納承三郎が原告主張の損害賠償債務を負うとしても、その損害の発生及び拡大については、以下にのべるような原告の過失がその一因であるから、過失相殺が考慮されるべきである。

1 一般に金六〇〇万円もの多額の金員を他人に貸付けるときは、事前に相手方の返済能力について調査を尽すとか、保証人をつけさせる等債権回収に十全の手段を講ずるのが常識であるが、原告は斎藤亀好の資産状態について十分な調査も施さず、かつ、保証人をつけさせることもしなかつた。

2 原告は、斎藤亀好が同道した岡森博子と称する女性が同人名義の印鑑証明書を所持していたこと、右女性の外観から推察される年令と右印鑑証明書に表示された岡森博子の年令が符合することのみから、右女性を岡森博子と信じ込み、右女性の所持する印鑑を調査しようともしなかつたことは軽率のそしりを免れない。しかも、原告は、右女性と同道して被告加納承三郎の事務所を訪れ、本件登記申請の嘱託を受けた伊藤長造をして、右女性が岡森博子であると信じさせる状況を自ら作出しているのである。

3 原告主張のように昭和五〇年五月一二日岡森博子から訴訟を提起されたとすれば、原告は直ちに斎藤亀好の財産を差押える等の手段により債権回収を図るべきであつたのに、同五一年一月三一日同人を相手に当庁に対して損害賠償請求訴訟を提起するまで、なんら具体的な策を講じなかつたのであつて、このような債権回収努力の懈怠が、損害の発生又は拡大の一因であることは否めない。

(被告国)

仮に被告国が原告主張の損害賠償債務を負うとすれば、原告の損害額の算定については以下のような事情が考慮されるべきである。

1 原告は本件登記申請事務を委任するにあたり、岡森博子と称する女性と面談しているのであつて、僅かな注意を尽せば右女性が岡森博子を詐称している事実を看破できたはずであるのに、その同一性確認のために格別の手段も講じなかつたのであるから、原告には重大な落度があつた。

2 登記申請に際して、相手方の印鑑証明書、委任状にそれぞれに押捺された印影が一致するか否かはまず、当事者において慎重に対比照合すべきであるのに、原告はそのような措置を全く講じなかつた。

第三  証拠〈略〉

理由

一原告、斎藤亀好及び岡森博子と称する女性の三名が昭和五〇年四月一一日司法書士である被告加納承三郎の事務所を訪れ、同被告の被用者伊藤長造に対し本件登記の申請事務を嘱託したこと、その際岡森博子と称する女性が同人名義の本件印鑑証明書、同委任状を伊藤長造に交付したこと、伊藤長造が同月一四日原告及び岡森博子の代理人として東京法務局墨田出張所に本件登記を申請したことは原告と被告加納承三郎との間に争いがなく(なお、原告は、第一次的に本件登記申請事務を受託し、処理したのは同被告である旨主張するが、右主張を認め得る証拠はないから、同被告自身の過失を理由として損害の賠償を求める原告の請求は失当である。)、同出張所登記官が同日右申請を受理し、右登記が経由されたことは原告と被告国との間において争いがない。

二原告は、被告加納承三郎の被用者である伊藤長造が、本件委任状に押捺された偽造印による印影と真正な本件印鑑証明書に押捺された印影の相違に気づかず、原告に対し本件登記申請書類に不備はない旨確言した過失及び被告国の被用者である登記官も右両印影の相違を看過して、右登記申請を受理した過失により、同登記が有効になされる又はなされたものと誤信した原告が斎藤亀好と財産上の取引をなし、損害を被ったと主張する。

〈証拠〉を総合すれば、本件土地は岡森博子の所有であるが、同人は同土地につき原告のために本件登記をなすことを承諾していなかつたこと、昭和五〇年四月一一日原告とともに本件登記申請事務の嘱託のため被告加納承三郎の事務所を訪れた女性は、岡森博子を詐称した小野君江であつて、同人が持参した本件印鑑証明書は真正なものであつた(右印鑑証明書が真正に成立したものであることは、前記のとおり原告と被告らとの間において争いがない。)が、当日その場で作成された本件委任状に押捺された印影は、斎藤亀好が偽造した印鑑によるもので、右印鑑証明書に押捺された印影と相違すること(右両印影が相違することは、原告と被告国の間においては争いがない。)、本件登記申請事務を受託した伊藤長造は、小野君江が岡森博子本人であると信じて疑わず、また、右両印影の相違に気づかないまま、同月一四日右事務を処理し、同日原告からの問合わせに対してこれを完了した旨応答していることが認められ、他方、東京法務局墨田出張所の登記官も右両印影の相違を看過して本件登記申請を受理し、これを登記簿に記入したことは原告と被告国との間において争いがない。

そこで、次に伊藤長造及び登記官が右両印影の相違を発見できなかつたことにつき過失があったか否かを検討する。

1  不動産に関する登記申請の申請書には一定の事項を記載して、申請人が署名捺印することを要する(不動産登記法三六条一項)から、代理人によつて登記を申請するときは代理人の署名捺印を要し本人のそれは不要であるけれども、他方、本人発行の代理人の権限を証する書面(同法三五条一項五号。登記申請を委任する委任状がこれにあたる。)には本人の署名捺印を要する。そして、所有権登記名義人が「登記義務者」として登記申請をするとき等一定の場合は、自然人ならば住所地の市町村長若しくは区長の証明を得た印鑑を代理権限証書に押捺し、かつ、印鑑証明書を申請添付書類として提出しなければならない(同法施行細則四二条、同条の二)のであつて、かかる登録済印鑑の押捺及び印鑑証明書提出の要請が、もとより登記義務者本人の同一性ないしその効果意思を確認し、虚偽の登記の発生を予防するための手段であることは、いうまでもない。

2  ところで、司法書士は他人の嘱託を受けて登記に関する手続を代つてすること等を業とする者である(司法書士法一条)から、他人から登記申請に添付べきす書類の交付とともに登記手続の嘱託を受けたときは、その職務上の義務として、当該書類が登記手続法所定の要件を具備し、これによつて有効な登記が経由できるか否かを調査点検すべきはもとよりであり、就中前記のような印鑑証明書の提出を義務づける不動産登記法施行細則の趣旨に鑑みれば、代理権限証書たる委任状に押捺された印影と印鑑証明書に押捺された印影が一致するか否かを照合すべきであることは云うを俟たない。しかしながら、委任状、印鑑証明書にそれぞれ押捺された印影の照合は、嘱託者と登記申請書類上登記当事者と表示された者との同一性の有無また、嘱託にかかる登記の実体上の原因の有無を確認するための重要な手段ではあるけれども、それが唯一絶体の手段ではないうえ、当事者の同一性及びその効果意思の確認は、当事者間で事前に調査をしたうえで司法書士に登記手続の嘱託をするのが取引の順序であることを考えると、とくに、本件におけるように登記当事者双方(但し、一方は当事者と称する者ではあるが。)から同時に、直接嘱託を受けたような場合には、司法書士の前記照合義務の具体的内容及び程度は、特段の事情(例えば、当事者の一方の同一性に明白な疑いがあるのに、他方がそれに気づいていないことが窺われる場合とか当事者の一方又は双方からとくに印影の照合を依頼された場合)がない限り、委任状、印鑑証明書にそれぞれ押捺された印影を肉眼で対照して両印影の大きさ型、字体等に差異がないかどうかを検討することをもって足り、逐一拡大鏡や印鑑対照検査機等の器機を用いた精密な照合をなすべき義務までは負わないというべきである。

ところで、〈証拠〉によれば、本件登記申請事務の嘱託を受けた同人は司法書士の資格は有しないものの、昭和四四年若しくは同四五年ごろから被告加納承三郎の事務所に勤務し、司法書士の業務の補助に携わつてきたものであることが認められるから、このような被用者も、その業務を処理するにあたつては、司法書士について前述したと同内容、同程度の照合義務を負うと解すべきである。

3  他方、不動産登記制度の目的は不動産に関する実体的権利関係の変動を公示することによつて、不動産取引の安全と円滑を図ることにあるから、権利者の意思に基づかない虚偽の登記等が事前に登記簿から排斥されるべきことは、その目的自体から当然に要請されるところであり、かかるゆえに不動産登記法施行細則四七条は、「登記官カ申請書ヲ受取リタルトキハ遅滞ナク申請ニ関スル総テノ事項ヲ調査スヘシ」と規定して、登記官に登記申請受理にあたつて申請事項を審査する権限を与え、同法四九条において申請を却下すべき事由を列挙しているのである。そして、登記官の右審査権の範囲、審査の方法、程度については、これを明規する規定は存しないが、右不動産登記法四九条に列挙された却下事由に照て考察すると、まずその審査権の範囲は、単に形式的ないし手続法的事項に止まらず、実質的ないし実体法上の事項にまで及ぶけれども、その審査の方法は原則として書面審理に限定され、その審査の程度も、申請内容と一致する実体関係が存在することにつき積極的確信ないしそれに近い程度の心証にまで到達することを要求するものではなく、かかる実体関係の存在がとくに疑わしい場合に限って申請を却下すべきであることが明らかである。したがつて、登記官は、申請者が適法な登記申請の権利、義務者又はその代理人であるか否か、登記申請書及び添付書類が法定の形式を具備しているか否か等を審査しなければならないが、その審査に当つては、申請のために提出された書面自体の点検はもとよりのこと、これと登記簿、印影等の比較対照によつて、各書面の形式的真否を判定し、明白に不真正な書類に基づく申請であるとの疑いが存する場合はこれを却下すべき注意義務を負うけれども、登記官の注意義務はまた右の程度に止まるというべきである。ところで、前記のとおり、登記申請が代理人によつてなされる場合には、その権限を証する書面の提出が要件とされているから、登記官がその形式的真否を審査すべきことはいうまでもなく、とくに申請書類中に印鑑証明書が添付されているときは、代理権限証書の真否を判定する有力な手段として、これに押捺された印影と印鑑証明書に押捺された印影とを照合すべきことは、前記1に述べたところに照らして明らかであるが、右照合義務の具体的内容及び程度は、前記のような登記官の審査権の消極的性格、大量の登記申請に迅速に対応しなければならない事務の実情等に鑑みれば、右両印影を肉眼で対照して両印影の大きさ、型、字体等に差異がないかどうか検討し、疑わしい場台にはさらに拡大鏡や印鑑対照検査機等を用いて検査を尽すことをもつて足りるというべきである。

4  そして、証人伊藤長造の証言によれば、本件登記申請の嘱託を受けた同人は、本件印鑑証明書と本件委任状を平面に並列し、それぞれに押捺された印影を肉眼で照合したことが、また、弁論の全趣旨によれば、本件登記申請を受理した東京法務局墨田出張所の登記官も右と同様の方法により右両印影を照合したことがそれぞれ認められ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

5  ところで、本件印鑑証明書に押捺された印影と本件委任状に押捺されたそれとを、実物大に即して肉眼で対照してみると、後者は前者に比して、「岡森博子」の四文字のうち、「岡」の字の右上部、「博」、「子」の各左上部の各字画線がいずれも輪郭線の内側の線にやや近接していることが、また、「子」の字の下部の字画線が、前者においては、左下方にゆるやかに傾斜している(」)のに対し、後者においては「」のようにほぼ鍵形になっていることが窺われるほかは、右両印影はその大きさ、型及び字体等が肉眼では識別が困難な程度にきわめて類似しているものであり、その識別は慎重な注意を払つても必ずしも容易なものではなく、従つて右両印影を肉眼照合した伊藤長造及び東京法務局墨田出張所登記官が、その相違に疑念を抱かず、それ以上精密な方法を用いた照台を尽さなかつたとしても、これに過失があつたとすることはできない(とくに伊藤長造につき、肉眼照合以上に精密な照合が義務づけられるような特段の事情が存したことを認め得る証拠はない。)。

三よつて、被告加納承三郎の被用者たる伊藤長造及び被告国の被用者たる登記官に印鑑照合に関する過失があつたことを前提とする原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないことが明らかであるから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(山田二郎 矢崎秀一 小池信行)

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